真・新世界秩序に向けて【Toward the true New World Order】              『新・霊界物語 第百三十九話』

聖徳太子が制定された十七条憲法の第一条は、「和を以(も)って貴(とうと)しとなし」、第二条は、「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」であった。
 私は三宝を篤く敬い、帰依する者であるが、“この世の情報”は諸行無常である。
 すなわち、“真理”は永遠不変のものであるが、しかし“情報”は絶えず移ろいゆくものである。
 ならば、“真理”ならばまだしも、“情報”なのだから、訓詁学のようになっては絶対にならない。
 かつてイエスの時代、律法学者たちは「モーセはこう言った、ああ言った」と、まるで訓詁学のように真理を捉えて、イエスと論戦し、そしてこの論戦に負けて、イエスを十字架にかけていくが、「仏陀はあの時、こう言われた。ああ言われた」と、“情報”にまで帰依して、訓詁学のようになっては絶対にならない。
 なぜなら“三宝のみならず情報にまで帰依する”、それは“勝利”への道でもなければ、ましてや百年後、千年後、三千年後まで“常に勝利し続ける”、“常勝への道”では絶対にないからだ。
 なぜなら維新とは、この世の志士たちがマスコミのごとく、“情報交換”することで、成し遂げられていくからだ。
 なぜなら仏陀は必ず、入滅、ご帰天されるからである。
 しかも訓詁学は時に、原理主義さえ生み出し、そして信仰に真面目で純粋なのと、原理主義は大きく異なる。
 仏陀の偉大さは、その心の教えの量と質のみならず、モーセ、イエス、ムハンマドとは異なり、三宝体制を作り、自らがご帰天された後に、弟子たちが信仰に真面目で純粋でありつつも、原理主義のようにはならないように、“宗教経営”までされた点でもある。
 “宗教組織の経営”という点において、わずか三年、教えだけ説いて十字架にかかってしまったイエスと、数十年に渡って教えを説くのみならず、三宝体制まで作った仏陀とでは、その能力と功績には雲泥の差がある。
 そしてこの差こそが、キリスト教の教えの中から、生まれ変わりの教えが無くなると共に、キリスト教において、十字軍の遠征や魔女狩りといった他教徒のみならず、キリスト教者に対する迫害まで呼び、そしてプロテスタントを生んだ。
 しかもカトリックとプロテスタントの激しい対立の歴史・・・、悲しい限りである。
 しかし仏教は平和的であった。
 そして“政治”というものには、小さいレベルから大きなレベルまで実にたくさんある。
 たとえば何か小さなグループの中でも、人間関係の対立が生じれば、誰がイニシアチブを取るかで、やはり“政治”が存在する。
 小学校でも、誰が学級委員長をやるかで、政治がある場合だってある。
 また各政党などでは、派閥による勢力争いといったレベルでも、やはり政治が存在している。
 また党と党が、どちらが政権を取るかでも、やはり“政治”がある。
 そして当然ながら、日本、アメリカ、中国といった“国家レベルの政治”もある。
 しかしここで止まってはいけない。
 “国家レベル”でのみ、政治を考えてはいけない。
 なぜなら“国家の枠を超えた政治”というものも、たしかに存在するからだ。
 そして個人、派閥、政党、国家、さらには国家を超えたレベル、これらの政治はすべて繋がっている。
 これは“政治の本質”の一つでもある。
 そして“政治の本質”を見ていくと、『国際政治を見る目』が持てて、日本の真の姿も見え始める。
 あるいは『国際政治を見る目』が持てると、共産主義のみならず、資本主義の終わりまで見え始める。
 だから私は、この“真実”に気がついた者として、そして篤く三宝を敬いつつも、『国際政治を見る目』を持つ者として、真の新世界秩序に向けて、十字架にかかる覚悟で命を懸ける。
 とくとご覧あれ、これが本物の命懸けの演説である。